ラミー2000が発売された1960年代は、万年筆にとって最も苦しい時代だったのではないかと想像しています。
モンブラン146は廃番になり、ペリカンはそれまで主力だった400というクラシックタイプの万年筆の生産を止めてしまっていることからも分かるように、万年筆が売れなくなった時代でした。コンウェイスチュアートが倒産したのも60年代で、他にも多くの万年筆メーカーがこの頃姿を消しています。
その理由は50年代に登場したボールペンが普及して、人が文字を書く道具がボールペンに移行したからでした。
日本では少し状況は違っていましたが、それでも大きなペン先のクラシックタイプの万年筆は姿を消していて、小さなペン先でキャップを閉じると短くなるポケットタイプの万年筆をスーツやワイシャツのポケットに差していた時代です。
万年筆暗黒時代の只中の1966年にラミー2000は発売されています。こんな時に何で?と思わなくもないですが、こういう時代の転換期だったから全く新しいデザインのラミー2000ができたのだとも言えます。
実用の道具としての万年筆の役割は終わって、万年筆メーカーは今までと違うものを示さなければ、売れなくなった万年筆とともに沈んでいくことになります。
万年筆が売れないなら売れないで、事業を縮小できたらよかったのかもしれませんが、時代が変わったからといってすぐに規模を小さくすることも難しかったのかもしれません。
単価を上げて、経費を下げてより利益を確保するということも売れない会社存続の方法だと思いますが、そのためにはその会社の万年筆の在り方から考え直す必要があります。
著名な工業デザイナーで世界的な家電メーカーブラウンの仕事を主にしていたゲルハルト・ミュラーによる、未来の、2000年にも通用するデザインの万年筆の発売でラミーは新しい万年筆の在り方を示して、会社の方向性を示しました。
その向かう方向は今も変わっていないように見受けられ、その時ラミーが筆記具メーカーのひとつの理想像を見つけたことが分かります。
ラミー2000の構造を考えた時、当時発売されていたモンブラン24などの万年筆と共通点が多く、構造的・機能的に新しいことはなかったけれど、無機質で装飾のない当時最先端の工業デザインの考え方を取り入れたということが新しく、画期的なことでした。
そしてそれは55年経っても、全く色褪せないものとして今も在る。
やや遅れた1970年に、アウロラは万年筆・筆記具の歴史に燦然と輝く、細い円筒形の万年筆アスティルを発売していて、工業デザインと出会った万年筆メーカーは歴史的に意義のある万年筆を発売していることが分かります。
アスティルのデザインは1970年代に多くのメーカーが真似してムーブメントになり、暗黒時代にあった万年筆業界に光明が差しました。
一方、ラミー2000に似た万年筆は出てこなかったけれど、それほどラミー2000は個性的だったと言えます。それでもラミー2000は今も作り続けられていて、万年筆のひとつの定番と言えるものになっています。
ラミー2000発売55周年を記念して、2000ブラウンが発売されています。
ボディカラーをブラウンにし、クリップなど金属パーツをPVDコーティングした豪華版の2000には、デザイナーゲルハルト・ミュラーの数多くの仕事を収めた写真集と豪華な牛革貼りのノートが付属しています。
なぜボディカラーをブラウンにしたのか、ラミーから正式な発表はないけれど、ゲルハルト・ミュラーがその多くをデザインしていた家電メーカーブラウン(BRAUN)に敬意を表したからではないかと邪推できなくもないし、3300本という限定本数については、ゲルハルト・ミュラーがラミー2000をデザインした時(発売の前年の1965年)の年齢が33歳だったからだと言う人もいます。
一つの製品が55年間姿を変えず存在し続けたということは稀なことで、万年筆というものの特殊性はあるけれど、ラミー2000がデザインやものの在り方においての偉大な発明であったことには変わりありません。
時代の転換期に新しいものが生まれるのなら、今がその時代の転換期で、今までと違うものが生まれるタイミングなのかもしれません。私たちはそんな時代を今生きているのではないでしょうか。