日本人の万年筆観

日本人の万年筆観
日本人の万年筆観

昭和から平成に変わった時、19歳という若さのせいか、ただ元号が変わっただけと無関心でいました。でもあと数日で迎える今回は感慨のようなものを感じていて、今の時代の雰囲気を覚えておきたいと思っています。
それは終わろうとしている平成を懐かしむというよりも、次に変わろうとしている時代への興味の方が大きい。
私が19歳で始まった時と終わろうとしている今とでは、世の中はコンピュータとインターネットの普及で目に見えて変わりました。
これからの時代はどうなっていくのか、平成の始まりの時に想像できなかったように、これから世の中がどう変わっていくのか私には分からない。
しかし、万年筆がなくならないことは分かります。
もちろん万年筆がなくなると仕事上困るので、なくならないようにする努力はしようと思っているけれど。

これからの未来は、過去と現在の延長線上にあるのではないことは私にも何となく分かるので、昔の話が参考になるかどうかは分からないけれど、物事を考える時に歴史を踏まえて考えるべきだと誰かが言っていた。
20世紀のはじめに日本に万年筆が海外から入ってきて、それがなぜ定着したのかを考えると、少なくとも日本では万年筆はなくならないと思えます。
当時万年筆は世界中に広がったと思われますが、多くの国では使われなくなっていて、欧米ではごく一部の人の貴族的で高尚な趣味の道具として存在しています。

でも、日本では違う。
使うのは一部の人なのかもしれないけれど、日本においての万年筆はもっと生活に根差したもののように思えます。

当時の日本人は新しいものに敏感だったから万年筆に飛びついたのではなく、それを受け入れる素地をすでに持っていた。万年筆は日本人の道具観、モノに心を投影するような感覚に合ったのだと想像しています。
それは筆記具を重要視する日本人の筆記具観と言っていいのかもしれません。

世界の人が自分の万年筆をどのように見ているのか分からないけれど、日本人の万年筆に対する考えはユニークなのかもしれない。
始まりは欧米から輸入された万年筆ですが、これからの時代はこの万年筆を愛用する日本人の筆記具観を逆輸出する時代なのかもしれない。

私は夢と希望を持って次の時代の万年筆を見ています。

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