私たちはなぜ万年筆に惹かれて、様々なものに興味を持って欲しくなってしまうのか。
それはその万年筆によって自分の仕事が良くなるような気がするからだと、今までは結論づけていました。
あの万年筆を使うともっと良い文章が書けるかもしれない。書く文字も変わるかもしれない。仕事の役に立つ、自分への投資だ、と多少無理してでもインスピレーションを刺激した万年筆を手に入れようとしていました。
きっと誰もがそうだと思うけれど、自分の仕事をもっと良くする役に立って、それが自分の手に負えるくらいの金額で何とかなるものだったら、ぜひその万年筆を手に入れたい。万年筆はそう思わせてくれるものであります。
でも例えば旅行したり、休日にどこかに出掛けるということも何か気付きやひらめきにつながるかもしれないと、仕事を良くするために行っているようなところもあります。すると結局、全ては仕事を良くするためということに向いているのかもしれないので、万年筆に限った話ではないのかもしれないけれど。
でも万年筆が仕事を良くする役に立つという考えは、万年筆を使うようになってかなり経った今でも思っているので、勘違いではないと思う。けれどそれだけではなく、もう少し心の中の深いところでも惹かれているのだと思います。
万年筆全般ということではなく、その個別のものに惹かれるのは、その万年筆が自分の生き方を表してくれるように思えることも理由だと思います。
何か特定の万年筆が自分の表現したい世界観を表現してくれていたり、自分の信念を表現してくれていることもあり、そんなものに出会ってしまったら手に入れないわけにはいかない。
万年筆で生き方を表現するほどでもなくても、書くこと全てを万年筆で執り行いたいということは、どちらかと言うとかなりの少数派だと思います。そしてきっとそういう人でなければ、万年筆を使いたいと思わないのかもしれません。
それは能力の優劣とか、感性の鋭鈍とか関係なく、ただそういう体質だから、そういう好みだからということで、それは生き方だと言い表すことができる。
そういう人はきっと生まれ持った素質によってそうなっているのだと思いますし、そういう人がいる限り万年筆はなくならないと思っています。
なくならないからと安心することはできなくて、万年筆のマーケットが小さくなったり、世の中での露出が少なくなっていって、もっと目立たないものになってしまったら、万年筆に出会うべき人も出会えなくなってしまいますので、万年筆業界を華やかにする努力を我々はするべきだと思う。
世界中の人に万年筆を使ってもらうことはできないかもしれないけれど、万年筆を使う生き方の資質を持っている全員が万年筆に出会えるように、私たち万年筆の業界の人間は努力するべきだと思っています。
今週は具体的な商品ではなく、何か漠然とした内容になってしまっていますが、こういうなぜ私たちは万年筆を使うのかという、考えても仕方ないことを考えるのも私は好きで、よく考えます。