長原宣義先生の訃報

長原宣義先生の訃報
長原宣義先生の訃報

セーラー万年筆の黄金時代の主役だった万年筆の神様長原宣義先生が亡くなったというニュースを旅先の香川県で聞きました。

長原先生は私がこの仕事をするきっかけになった人で、衝撃を受けるとともに、それだけの歳月が流れていて、自分たちの世代が万年筆の業界を背負っていかなければならなくなっていたのだと改めて思いました。
長原先生の万年筆クリニックでの姿を見て、人生の宝物を見つけたのは20年前でした。
お客様が持参された万年筆を受け取り、「これは書きにくかったでしょう」と優しく声を掛け、調整を始める。
少しグラインダーでペン先を研磨して、万年筆を「書いてみんしゃい」と返すと、どのお客様も別物のように書きやすくなったご自分の万年筆に驚かれ、とても感謝されて帰って行かれました。
ペン先調整の腕が良いのはもちろん、お客様とのやり取りは思いやりに溢れていて、その時の長原先生を見ることができたから、私は今こうして万年筆の仕事をしている。
竹軸の万年筆を作ってもらうために、呉の工場内にある先生の工房によくお邪魔していました。
まだ紐で束ねてある長いままの煤竹の中から、万年筆にしてもらうものを選ばせてもらい、この素材はこのペン先で作って下さいとひとつひとつ指定させてもらっていました。
「あんたが黒い竹、黒い竹と言うから、皆が黒い竹と言うようになってしまった」と笑いながら言われたことを覚えています。

当時、黒くて艶やかな煤竹が一番良いと思っていて、そればかりを使うように先生にお願いしていましたが、我ながら生意気だったと恥ずかしく思います。
私のような青二才の言うことに付き合ってくれて、間違っていることは正してくれて、多くのことを教わりました。

万年筆クリニックやお客様との交流から、常に新しい万年筆を生み出す姿勢を目の当たりにして、仕事のヒントはいつもお客様から与えられるとをいつも言っておられ、お客様の言われること、言われなくても思っておられることにアンテナを張っておくことが大切だと知りました。
それは先生から教わったことの中でも一番大切な、今も持ち続けている教えのひとつです。

ペン先調整は長原先生から直接レクチャーされたわけではありませんでしたが、かなりの時間を横にいて先生のしなやかに動く手元を見つめることが出来たことが今になって生きているし、当時言われていたことが、最近になって理解できたりしています。
グラインダーにペン先を当てながら、長原先生ならどうやるだろうといつも思っているし、書くために必要のない部分も美しく仕上げることが美学だと言われていたことを私も実践していきたいと思っています。

あまりに偉大な先輩、長原宣義先生のご冥福をお祈りいたします。